2008年1月2日水曜日
■僕が『レンタル空手家』を始めたわけ
ひきこもる情熱を空手道に傾けて
文責・遠藤一(レンタル空手家&フリーライター)
19歳で大学受験の浪人生だった1999年。
僕は、浪人生なのにまるで勉強する気がしませんでした。
未来への夢も何も見えませんでした。
アルバイトを週何日かしながら、残った時間はマンガや本を読むことで時間をつぶしていました。
とても不安でした。
その頃、新宿で行われていた自殺をテーマにしたイベントに足を運ぶと、一人の女性ライターと出会うことになりました。
リストカット(手首切り)やオーバードーズ(処方薬の処方量以上の摂取)など自分を傷つける悪習慣があった彼女に、僕は声をかけました。
「僕は死にたい、と思うことはないのですが、自分がいなければいい、と思うことはあります。
死んでもいいと思えるなら、楽かもしれませんね」
家に着くと、家族はすっかり寝静まっていました。
僕は自分の部屋に入り、しばらくの間じっと椅子に座っていましたが、やがて机の引き出しの中からカッターを取り出し、少し考えてから、あまり痛くなさそうな、肉のたくさんついている自分の太ももを軽く切りつけました。
不思議と、あまり痛くはありませんでした。
なぜだか、スッキリした気になりました。
まるで誰かに仕返しをしてやれたような、晴れやかな気持ちでした。
何度も何度も、次第に深く、まるで何かを憎むかのように、切りつけていきました。
僕は何かムシャクシャしたことや「どうしようもないな」と思うことがあったりすると、腕や脚を切りつけるようになりました。
たいていは、イベントの女性と同じように、「自分を許せない」友達が自分を責め苦しんでいることを知った時。
また、自分の中でどうしようもなく不安が高まった時もそうしていました。
母親は、僕が高校の時から精神科に通っていることを知っていたのですが、結局は大学に行くのだろうと思っていました。
僕はずっと、母親に自分が自傷していることを、知られたいような、知られたくないような気持ちでした。
一度、リストカットの途中で寝てしまい、血が止まらず1リットルほどの大量出血をしたことがありますが、母親はその場では騒ぎましたが、次の日になるとまるで何事もなかったかのように、普段どおりに振舞っていました。
父親はずっと海外にいて、多分このことは知らなかったと思います。
僕は、次第に自分と同じように、生き苦しく、それすらも自分のせいにしてしまう同世代や少し上の友人達と、イベントに行ったり、一緒に遊ぶようになっていました。
仲間の間では自分がダメなことをさらしても、誰も責めませんでした。
それが居心地よかったのかもしれません。
病院で出される向精神薬は、どんどん強いものになっていきました。
僕は、医者は「薬を出すだけの人」と認識して、もっと強く、より「現実を忘れられるような強くラリれる」薬を出してもらえるように症状をいつわり始めました。
自殺イベントの彼女と同じように、出かける時、人と会う時には、必ず薬を服用していました。
毎日、脚や腕だけではなく胴をも切りつけたり、強く効く薬を服用しながら遊ぶ日が続きました。
それでも、一人になると、得体の知れない不安は以前より強くなるばかりでした。
そんなある夜、携帯に一件の着信がありました。
その夜は人と話すのも怖くて、薬でぶっ飛びながら自傷行為をしていたので、電話には、出ずにそのまま眠りました。
次の日の夕刻、あの自殺イベントの女性が亡くなったということを知りました。
葬式は終わった後でした。
死因は、風呂場での溺死。
おそらく薬を大量服用したせいで昏睡状態で入浴し、頭まで湯に浸かってしまったのでしょう。
一年が過ぎ、20歳になった僕は、親に頼んで一人暮らしをさせてもらいました。
家にいると家族にも迷惑をかける気がして、いたたまれなかったからでした。
実際、家族はいつまでたっても勉強や将来のことにやる気を見せない僕にイラ立ち、ピリピリしていました。
家を出た直後は、アルバイトをして自活して行くつもりでしたが、すぐに引きこもりに変わりました。
毎月、親が仕送りを送ってくれていたからです。
2001年、21歳になりました。
「いつまで続くんだ、こんな毎日…」
いつものように十二時間近くの薄く長い眠りから覚めると、かったるそうに布団から起き上がりました。
カーテンの外は、これもいつもと同じように、夕刻過ぎでした。
「腹減った…」
そう思っても冷蔵庫の中にはもう何も入っていませんでした。
戸棚の奥に残っていた白砂糖も、昨夜食べ尽くしてしまったばかりでした。
「買いに行くしかないか…。」
外に出ると、またあの声と向き合わなくてはいけません。
「いつまでこんな暮らしを続けているんだ?」
深夜、人通りのなくなった頃、何日も着替えていない服にコートを羽織って、帽子を被り、外へ出ました。
コンビニのATMで金を下ろす時は、苦痛の瞬間でした。
「あんなに嫌な親から、どうして金をもらってまで生きているんだろう…。」
それでも下ろし、100円ショップで食料を調達した帰り、ブックオフで古本を漁ります。
少なくとも、買った本を読み尽くすまでは、現実に向かい合わないでいられる…。
部屋の中は、古本や古マンガだらけでした。
そんなある日、たまたま外に出かけている時、仲間から連絡が入りました。
「○○さんが亡くなったよ」
友達が死んだと聞かされるのは、これで三人目でした。
亡くなった彼女は、生きようとしていろんな試みをやっていました。
自傷行為の自助グループを立ち上げたり、自分の書いた詩を出版しようともしていました。
手首を切ったり薬の多量服用はしていましたが、生きるために何が必要か、模索していました。
死因は、心停止でした。
自傷行為や薬の過剰服用を繰り返すと、心肺機能が低下し、少量の薬でも心臓に大きな負担がかかって停止してしまうことがあります。
彼女はその危険性を知っていたのに、過剰服用をやめることが出来なかったのです。
通夜と葬式に出ました。
「ココロ系」の仲間は集まっていたのですが、彼女の地元の友達は一人として来ていませんでした。
納骨の後、彼女の家族の無理をしたような笑顔に耐えられなくて、先に一人で帰りました。
「何かしたい!」と思いました。
でも、それからも、しばらくは引きこもりを続けました。
2002年、22歳。
その年の夏、友達から「自傷行為や自分を責めることをやめられないなら、空手などフルコンタクトの格闘技をやればいい」と言われました。
自分にはとても勇気が出せませんでした。
空手道場なんかに行ったら、強いやつらがたくさんいて、あっという間にやっつけられてしまうような気がして。
近くの道場などを調べても、最初の一歩はなかなか踏み出せず、「どうしようどうしよう」「いつかはやらなくちゃ…」と思うばかり…。
そんなある日、自分と同じようにひきこもっていた友達が、自叙伝を出版しました。
タイトルは「「人を好きになってはいけない」と言われて」というもの。
内容は、小学校を卒業してからひきこもりになっていた彼が、ひきこもり中にPC操作を覚え、ゲームを作りたいという夢を持ち、家出して上京、さまざまな出会いに救われながら自分の金で大学進学を目指すまで、というものでした。
その自叙伝を売ることで、彼は大学進学の費用を稼ごうとしていました。
僕は、そんな彼を応援したいと思い、出版記念イベントを運営することにしました。
自分らしく生きることに賛成している著名人を集めてのトークライブ。
ひきこもりだった僕はこのブッキングにとても手間どり、司会をやっても言葉が出てこず、惨々たる始末…。
友達を応援したいと思っても、ろくに応援することが出来ない。
「なんてヘタレなんだ!」と思い、空手道場に入門することにしました。
フルコンタクト(直接体に打撃を当てるスタイル)で殴り合う空手をやれば、少しは人を怖がらずに、コミュニケーションがうまくなるだろうかと思って。
最初は基本クラスの稽古を見学させてもらい、その後お目当てのスパーリング(組手)のクラスも見学させてもらいました。
初めて見るスパーリングは、迫力がありました。
痛めつけあっているはずなのに、なぜか気持ちよさそう。
稽古慣れしている道場生は、女子の選手とスパーリングする際、無抵抗になり、女子の攻撃を受けるだけになります。
それは、「痛そう」と思うより、「ああ、理にかなっている」と思えました。
そして、なぜか「耐えてみたい」とも思ったのです。
見学が終わると、師範が言いました。
「スパーリングに慣れていない人は、加減がわからなくて相手にケガをさせてしまうことがあるのです。だから女子を傷つけすぎないように、慣れていない人はああやっているのです」
それを聞いて、「ああ、ここにしよう」と思えたのです。
2003年、秋。23歳。
初めての試合は新人戦で、準優勝でした。
試合に出ない仲間や先輩、友達が応援しに来てくれました。
試合でいっぱいいっぱいになっていて、正直、声援は聞こえなかったのですが、試合の前に「頑張れよ、絶対勝てる」などと声をかけてくれたり、固くなっているだろうと肩をほぐしてくれた温もりは、今でも思い出せます。
それから、一か月に一度のペースで試合をこなしていきました。
優勝も何回かしたし、一回戦負けも何度かありました。
自分を責める時間を作りたくなかったのです。
サボって後悔するほうが一番怖かった。
稽古に行った後は、何も考えずに静かに眠れました。
だから、稽古を欠かさなかったのです。
日曜日は休みにしていましたが、休みの日が一番怖かったのです。
そうしているうちに、次第に金銭感覚も変わってきました。
稽古の月謝やサポーター代、試合代くらいは自分で稼ごうと、日雇いのアルバイトを始めたのです。
親の金で空手に関わるものに使うと、空手ライフが穢れるような気がしました。
強くなれないのではないか、と。
そのうち、子どもに空手を指導してほしいという話が来ました。
埼玉で幼稚園や少年部を教えている女子プロレスラーの方がいて、その方があまりに指導に通うのが遠いので、誰かに引き継ぎたい、というのでした。
空手に関わってお金がもらえる。
それが魅力的で、その話を受けました。
週一回のクラスですが、みんな少しづつ進歩してきて、僕は子供たちから「元気」と「人を信じること」を学ばせていただきました。
組手でぶつかりあうことで、相手を信じること。
自分が相手から信じられる存在であること。
「教える存在」になるのだから、親から離れて自活しなければ。
僕はそう思い、ひきこもっていたワンルームを引き払い、保証人、敷金や礼金が不要のゲストハウスに移り住みました。
子ども向けの指導だけでは食えませんが、アルバイトも転々としながらなんとかやっていけるようになりました。
2006年、26歳。
アルバイト生活を続けてきましたが、好きでもない仕事を無理矢理やっていたら、ほとほと疲れてきました。
空手を続けたい。
だけど、このままでは仕事の都合やストレスに追われて満足に練習できなくなる…。
自分には空手しかない。
空手をやることで生き残ってきた。
空手に出会わなかったら、今ごろ多くの友人と同じように心停止で死んでいたかもしれない。
あいつらがまだ生きていたなら、空手によって引き上げてやりたい。
一緒に練習し、励ましあって強くなって大会に出て、勝ち残れれば素敵だろうな…
昔のバカでヘタレな自分と同じようなやつと、一緒に頑張れないだろうか?
僕は、昔の自分や、死んでいった友達たちと、もう一度友達になりたい。
先生や先輩、仲間の声が聞こえる。
「遠藤! 手数を出せ! 前に出ろ! 相手を外に出せ!!」
試合場で、コートの中で、「殺してやる」くらいの気持ちで傷つけあった相手。
でも、試合が終われば、ヘトヘトでも笑顔で握手し、健闘を称え合った。
あんなふうな付き合いが、空手を通じて出来ないものだろうか…
2007年、27歳。
前年末に黒帯を取得していた僕は、「レンタル空手家」と称し、ひきこもっている当事者から依頼されれば、自宅や公園などにこっちから足を運んで、一緒に空手の稽古をする試みを始めました。
自分の気持ちを相手に叩きつけ、相手の気持ちを受け止める。
自分を防御をしないと傷つきすぎてしまうし、自分より弱い相手には手加減しないと傷つけすぎてしまう。
それを体で学ぶ試みが、「格闘技」でした。
だから、かつての自分のようなひきこもりの若者が格闘技の道場やジムに通い始めるきっかけとして、こちらから出向いていく出張個人指導を始めたのです。
空手を始めると、頭ではなく「体を動かす気持ちよさ」で自分と他人に向かい合えます。
その手応えを、一人でも多くのひきこもりの方に実感してほしいと思っています。
●講演企画☆『当事者と一緒』
(※遠藤くんを講演に呼びたい方、遠藤くんについてもっと知りたい方は、上記に飛んでみてください)